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東京家庭裁判所 昭和41年(家イ)4917号 審判 1967年7月12日

申立人 水戸ヤス子(仮名)

相手方 水戸勇策(仮名)

主文

一、申立人と相手方とを離婚する。

二、当事者間の長男昭一の親権者を相手方と定め、同人において監護教育する。

理由

一、本件記録添付の戸籍謄本、当庁家庭裁判所調査官阿野博夫の調査報告書、本件調停の経過および昭和三八年(家イ)第三二二二号夫婦関係調整事件記録によると、次のような事実が認められる。

(一)  申立人(昭和一五年八月五日生)は郷里の福島県下の高等学校を卒業、昭和三五年四月上京して都内の電気部品工場に事務員として住込稼働中、同職場の工員であつた相手方(昭和一三年一二月一〇日生)と知合つた。申立人は、昭和三五年五月頃同工場の寮で相手方からなかば無理強いに関係させられ、翌六月頃から同棲生活に入つた。

(二)  しかし、申立人は元来相手方に愛情を懐いていたわけではなく、言わば不本意に貞操を傷つけられた女性の弱みから事実上の夫婦生活にはいつたに過ぎないため、相手方の短気・粗暴な性格に由来する暴力の行使ともあいまち、風波のたえない歳月であつた。そのうち、申立人は長男昭一(昭和三七年四月三日生)を儲けたが、これを契機に、家庭生活にもようやく平穏の兆が見え始めた。

(三)  申立人は、長男出生後相手方の収入のみでは生活が苦しいためバーのホステスとして勤め出し、昭和三七年一月五日婚姻届を了した。

(四)  ところが、同年の暮申立人がバーの勤務で帰宅がおくれ、その事が原因で夫婦喧嘩となり、申立人は家を飛出してバーの馴染み客と数日間外泊した。そのため夫婦仲は一層悪化し、昭和三八年二月頃には協議離婚の話にまで発展したが、結局夫婦生活を再建しようということになつて、再び申立人はバー勤めを始めた。

(五)  その後、暫くして相手方が肺結核を患い、同年五月下旬頃、親子三人で山形県○○市内の相手方の実家に寄寓し、相手方は同市の病院に入院したが、申立人は、長男を相手方の両親の手許に預けた儘上京、再びバーの客と親しくなつた。そして、申立人は同年八月頃たまたま入院先の外出許可を得て上京した相手方に、バーの客と一緒に居るところを発見され、暴行を受けたりしたため、相手方が病院に戻つた後当庁に離婚の調停を申立てた(昭和三八年(家イ)第三二二二号夫婦関係調整事件)が、当時は、相手方が入院中の身であつたので、右申立は取下げられた。

(六)  相手方は、昭和三九年三月頃退院し、同年五月頃上京して来たが、爾来、同年の九月頃に申立人の勤務していたバーで会つたのみで、申立人は相手方と顔を合わせるのを怖れ、相手方に居所をくらませたまま別居生活を続け、もはや、婚姻関係復元の意思も可能性も皆無に陥つたとして、昭和四一年一〇月一一日本件離婚の調停を申立てたものである。

(七)  申立人は、当裁判所調停委員会の調停の席上において、終始離婚希望の意向を強く主張しているのに対し、相手方は、「離婚は許せない さりとて、再び婚姻生活を復元しようとする意思もない。」旨理解に苦しむ陳述を繰返すばかりで、何ら前進的な姿勢で問題の解決に臨もうとする意欲を示さず、調停成立の見込がない。

二、当裁判所は、調停委員中島武雄、同淡路リキの意見を聴き、叙上認定の事実その他諸般の事情を観て、当事者双方のため衡平に考慮した結果、形式的には申立人が有責配偶者であることを否定しがたいとはいうものの、それとても、相手方の陵虐行為によつてスタートした婚姻であるところに本質的な要因の存すると解されることや、相手方がすでに破綻状態にある婚姻関係の調整について全く前向きの考えをもたず、申立人を妻の座にしばりつけて置くことで一種の心理的制裁を試みようとしているとすら窺われること等にかんがみると、家事審判法第二四条による調停に代わる審判によつて申立人と相手方を離婚させるとともに、長男昭一の親権者については、現在相手方の実家で養育されている点並びに当事者双方の意向を考慮し、これを相手方に定めるのを相当と認める。

三、よつて、主文のとおり審判する。

(家事審判官 角谷三千夫)

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